『葬儀司会について思うこと…』

葬儀は生きものである…と、私は、常々考えている。

同じ1時間…の中で、それぞれ宗派の違いはあるものの、読経の声響く中、香を焚き故人を偲ぶ…。

でも毎回その空気には違いを感じることができる。

会葬者や親族の顔ぶれや人柄、そして集まる人数によってもその空気は変わる。
 

最近悲しいのは、この“葬儀”という空間に慣れてしまっているのか、

私語の声が雰囲気を打(ぶ)ち壊す。

喋っている本人にとっては、ヒソヒソのつもりだろうが、そのヒソヒソが実によく耳に届く。

そして一組のヒソヒソが、そのうち あちらこちらに広がり、やがて“遠慮”もなくなり、

ヒドいときには笑い声がおきたり、「合掌」の時にさえ話し声が聞こえることも、めずらしくない。

司会をするものとして、この場の雰囲気を作る責任も強く感じるのだが、

全く打つ手がないのが現状である。
 

以前に親族から抗議をうけたことがある。

「会館側はなにもしてくれないんですか?」

以後、せめてコメントだけもするよう心がけている。

「読経中につきまして、どうぞお心静かにお勤め下さいませ…」

 

 しかし、その言葉を聞いて欲しい肝心の人は しゃべっているのだから、このコメントは耳に届かない。

結局、私のコメントこそ無駄な音声と化し、葬儀の邪魔をすることになる。

本末転倒である。

 

実に悲しいことだが、このコメントは、『うるさいなぁ』と思いながら静かに読経に耳を傾けている

人に対する『私は、静かにしてもらう努力をしています』…というアピールの為のコメントに

なってしまっているのが現状なのだ 。

 

プロとして 場の仕切りを任された以上は、強い責任感をもって臨んでいる。

とはいうものの、人間である以上、失敗はつきもの。

 

 というか、10年間この仕事をさせて頂きながら、1度として100点満点の司会のできていない

私などは、毎回何かしらやらかしている…と言えるのかもしれない。
 

さあ、今からお通夜です。100点目指して頑張ってきます。